最近、国会の映像を見ていて、
どうしても胸がしめつけられる場面がありました。
それは特定の政党を支持するかどうか、
という話ではありません。
小泉進次郎氏の「ミサイル大好き」発言と、国会の笑い声への違和感
2026年4月の国会で、
「共産党さんはミサイル大好きですよね」
そう揶揄する言葉と、
それに続く周囲の笑い声。
それを見たとき、
私は政治の議論ではなく、
ある「既視感」に襲われました。
それは、
教室の片隅で行われる
集団いじめの構図そのものだったからです。
ブログ『優しい子が生きにくい社会を私は変えたい』の
運営者として、
この光景が子どもたちの目にどう映るのか、
社会への問いを綴ります。
集団で一人を揶揄する姿は、学校の「いじめ」の構図そのもの
相手を「○○が大好きな人たち」と決めつけ、
レッテルを貼って笑いものにする。
そこには、
相手が何を考えているのかを聞こうとする姿勢も、
歩み寄ろうとする意志もありません。
あるのは、
「自分たちは多数派で正しい、
あいつらは変わった奴らだ」
という冷酷な線引きです。
これを「対話」と呼べるでしょうか。
私には、
対話を完全に放棄した、
拒絶の宣言にしか見えませんでした。
「多勢に無勢」を肯定する大人の姿が、子どもに与える影響
私のブログでは、
いつも「優しすぎる子どもたちを守る」こと
について書いています。
そんな繊細で優しい心を持つ子たちが、
もしこの光景を見たらどう感じるでしょうか。
- 「意見が違うと、あんな風に大勢でバカにされるのだ」
- 「力を持っている側が、
弱い側を笑っても許されるんだ」 - 「本当のことを言ったら、
私もあの中の誰かに笑われるかもしれない」
そんな恐怖や絶望を、
無言のうちに受け取ってしまうはずです。
大人が公の場で見せているのは、
議論の技術ではなく、
**「気に入らない相手を排除する作法」**
になってしまっています。
政治の場にこそ、弱者に寄り添う「優しさ」と「対話」を
子どもたちに
「いじめはやめよう」
「相手の気持ちを考えよう」
と教える私たちは、
この光景を
「政治だから」
という理由でスルーしてはいけないと思うのです。
高圧的な態度や嘲笑で相手を黙らせるのではなく、
どんなに意見が違っても、
一人の人間として敬意(リスペクト)を持って向き合うこと。
その「当たり前の優しさ」が、
国会という
日本の最高機関にさえ
欠けているのなら、
私たちが声を上げ続けなければなりません。
私たちが守りたい社会
優しすぎる子どもたちが、
委縮することなく、
自分の意見を安心して口にできる社会。
それは、
大人が「対話の冷たさ」を捨て、
温かな眼差しで異論に向き合える背中を
見せることから始まるのだと信じています。





