不登校は義務教育違反?私が考える「情操教育」という真の学びと、多様性を拒む政治の怖さ

社会への問い

不登校は義務教育違反だと言われ、
自分を責めていませんか?

私は大学で「幼児期の情操教育」を学び、
お寺という環境で育ちました。

その経験から、
今の学校教育や政治が、
子どもたちの「心の余白」を
奪っていることに
強い危機感を感じています。

不登校の息子や
拒食症に苦しんだ娘との日々を経て
見えてきた、
多様性を認めない社会の正体と、
私たちが本当に守るべき
「情操」についてお伝えします。

「不登校の悩み」と「今の政治の動き」に共通する冷たさ

学校というシステムに馴染めず、
心身を壊してまで「NO」を発信した息子。

多様性を認めると言いながら、
実際には「普通」という狭い枠に子どもを
押し込める教育現場。

その縮図が、今、
国という大きな単位で起きようとしています。

それは、「枠からはみ出る者を、
力でねじ伏せようとする姿勢」です。

不登校は「義務」の欠如なのか?教育の本当の意味を問い直す

勉強やスポーツよりも大切な「情操教育」という心の根っこ

一般的に
「不登校は義務教育に違反する」
と言われることがあります。

しかし、私は問い直したいのです。
本当の意味で必要な「教育」とは
何なのでしょうか。

私は情操教育こそが最も必要な教育だと思っています。

命を尊ぶこと。
美しいものに感動すること。
友だちに共感すること。

そんな経験こそ、
幼児期に何よりも必要なのです。

教育は、
学校の勉強や運動だけではありません。

家庭での情操教育は、
何より大切な教育であるはずです。

しかし、今の社会や政治が
「教育=学校」という捉え方に
固執することで、
「学校に行かせていればそれでいい」と
家庭での情操教育を疎かにしてしまうかもしれません。

心の豊かさという「余白」が持てない競争社会の歪み

また、勉強やスポーツで
結果を出すことを強いるあまり、
子どもたちの心の豊かさという
「余白」が持てなくなっているのではないでしょうか。

政治が「理想の国」や「強い国民」を求める影で、
この一番大切な「心の余白」が削り取られていることに、
私は強い危機感を感じています。

多様性を当たり前にする社会へ。逆行する政治への違和感

憲法は誰のもの?主権者が「国民」から「国」に変わる怖さ

政治が暴走しないように
憲法があります。

その憲法が国民を縛るものに変わり、
主権が「国民」から「国」へ移ろうとする怖さ。

それは、私が大学で学んだ「情操教育」の
真逆を行く行為です。

情操教育とは、
自分と違う存在を認め、
己の欲深さを知り、
慈悲の心を持つこと。

「理想の国」を押し付け、
異論を排除する政治には、
この「謙虚な情操」が欠落しています。

阿弥陀さまの眼差しを失った「善悪」で分断する政治家たち

「反戦」を唱えれば馬鹿にされ、
弱者を切り捨て、
自分と同じ考えだけを集める政治。

それは、
バレエ教室で娘を追い詰めた
「自分たちが正解、邪悪者は敵」という
あの残酷な空気と同じではないでしょうか。

実際私の娘もバレエ教室での
嫉妬といじめによって、
7年という長い歳月を
拒食症という病と闘うことになりました。

あの時、娘を追い詰めていたのは
「いじめられる場所」で
「邪悪者は敵」とされるもの。

同じく、
権力者が「正解」を一つに決めてしまった時、
優しすぎる子たちの居場所は、
この国から消えてしまいます。

優しすぎる子が絶望しないために。私たちが家庭で守るべき「心の聖域」

たとえ政治が無慈悲に進もうとしても、
私たちは心の鏡(絶対的な存在)を
持ち続けなければなりません。

自分の非を認め、
他者と手を取り合う。

その「情操」こそが、
本当の意味で国を守る
「防波堤」になると信じています。

子どもたちが、
ありのままの姿で、
胸を張って生きていける社会を。

私は一人の親として、
これからも「おかしい」と言い続けます。

▶私たちに今足りない教育を書いてます

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