小泉進次郎大臣の「共産党さんはミサイル大好き」という揶揄への違和感
2026年4月の国会答弁で、
小泉大臣が放った
「共産党さんはミサイル大好きですので」という言葉。
それを取り囲んで笑う議員たちの姿を見て、
私は2年前、
当時小学6年生だった息子が泣きながら訴えた
音楽室での出来事を
思い出さずにはいられませんでした。
政治の場で行われる揶揄(いじめ)が、
どれほど子どもたちの心を傷つけ
対話を拒絶する冷たい社会を作っているのか。
不登校の親として、
この事案を見過ごせない理由を綴ります。
不登校だった小6の息子が、「音楽の授業」を拒絶した理由
息子が小学6年生の頃のことです。
仲の良かった友達から
大切なポケモンカードを
脅し取られたことをきっかけに、
次男は心身のバランスを崩し、
学校へ通えなくなりました。
相手から謝罪を受け、
息子なりに「許す」という選択をしたものの、
深くえぐられた心の傷は
そう簡単に癒えるものではありませんでした。
そんな中、
次男が勇気を振り絞って登校した、
ある日のことです。
音楽の授業中、
かつて次男からカードを奪ったその子が、
少し騒がしくしてしまいました。
すると、
担当の先生がこう注意したのです。
「君はそんなだから、友達ができないのよ」
その瞬間、
息子の心は粉々に砕けてしまいました。
自分を深く傷つけた相手。
憎くて、
集合写真の顔を黒く塗り潰してしまうほど
拒絶していた相手。
それなのに、
息子は怒りに震えながら私に訴えたのです。
**「音楽の先生が、あの子を傷つけたんだ」**と。
息子が傷ついたのは、
あの子を庇いたかったからではありません。
たとえ過ちを犯した子であっても、
大勢の前で人格を否定され、
晒し者にされる。
その「大人の暴力」が、
何よりも許せなかったのです。
自分を傷つけた相手への憎しみさえ
忘れてしまうほど、
息子は大人が放った
「言葉のナイフ」に絶望していました。
その後、
学校へ事実を伝え、
音楽の先生からは謝罪があったと聞いています。
でも息子はそれ以来
「音楽の授業がある日は休む」
と言うようになりました。
大人にとっては、
ほんの「教育的な注意」
のつもりだったのかもしれません。
けれど、
多勢に無勢の状況で、
一人の人格を否定して
笑いや同意を誘うような振る舞いは、
子どもたちの目にどう映るのか。
大人の放つ一言には、
子どもの人生を左右するほどの
重い責任があるのだと、
私は息子の震える背中から教わりました。
多勢に無勢で一人を笑う。大人が見せる「いじめの肯定」という背中
息子が傷ついたのは、
先生の正義感の裏にある
**「言葉による排除」**でした
相手が間違っていても、
その存在自体を否定し、
多勢の前で晒し者にする。
その冷たさに、
息子は絶望したのです。
今回の国会での
「ミサイル大好き」という揶揄と、
それを囲んで笑う大人たちの姿は、
まさにあの音楽室の光景と重なります。
「あいつは変わった奴だから、
何を言ってもいい。笑ってもいい。」
そんなメッセージを、
国という大きな舞台で
大人が発信してしまっているのです。
謝ることは格好悪い?間違いを認める姿こそ、子どもに教えたい強さ
大人は完璧ではありません。
先生も、大臣も、私も。
つい言葉が過ぎることも、
判断を誤ることもあります。
でも、
本当に子どもに見せるべき背中は、
「間違わない姿」ではなく、
**「間違ったときに認め、謝り、反省する姿」**
ではないでしょうか。
「ごめん、今の言葉は言い過ぎだった。
人を傷つける言葉だった。」
そう認めて謝る姿は、
決して格好悪いものではありません。
むしろ、自分の弱さと向き合える
「本当の強さ」であり、
子どもたちに最も教えるべき
「誠実さ」だと思うのです。
この連鎖を止めたい
今国会で笑っている大人たちに、
この批判の声は届いているでしょうか。
もし「謝ったら負け」だと思っているのなら
それは大きな間違いです。
優しすぎる子どもたちが、
「世界はそんなに冷たくないんだ」と
信じられる社会にするために。
まずは私たち大人が、
言葉の重みを知り、
自分の非を認める勇気を持つことから始めたい。
私はそう強く思っています。
▶国会発言そのものについての違和感を書いてます
▶優しすぎる子の優しさを利用する子
▶誰かを支配していませんか
大人に問いたい



