不登校の子どもを支えるとき、
親は思っている以上に多くの声に囲まれます。
「教育を受けさせる義務に反していないか」
「昔はみんな我慢して通った」
「社会性が育たなくなる」
「友達がいないと将来困る」
どれも、子どもを思っての言葉なのだと思います。
だからこそ、簡単には否定できません。
けれど私は、あるとき考えました。
その声は、本当に子どもの尊厳を守る方向を向いているのだろうか、と。
「教育を受けさせる義務に反する」と言われたとき
子どもは学校へ行って勉強する。
日本では、それが”当たり前”です。
けれど、その当たり前が、不登校の親を静かに追い詰めていることを、私は実感しています。
実は、法律では、不登校の子どもが心身を回復するための「休養の必要性」が示されています。
教育機会確保法(13条)では、無理に登校を促すのではなく、その子の状態に応じた支援が大切だとされています。
つまり、休むことは「怠け」ではなく、
守られるべき時間でもあるのです。
それでも、多くの人が知っているのは、
「学校に行くのが当たり前」という考え方だけです。
制度としては認められていても、
社会の空気は簡単には変わりません。
不登校の親は、
”当たり前”の中で生き続けなければならない立場です。
法律があっても、
心の中の「それでいいのか」という声は消えない。
その見えない圧力こそが、
子どもの尊厳を守ろうとする親にとっての壁になるのだと思います。
「昔はみんな我慢して学校へ行った」という言葉
今、不登校の子どもが増えています。
そして同時に、
「無理にでも行かせない親は甘やかしている」
そんな言葉にも、私たちは傷ついています。
たしかに、13歳上の長女も、11歳上の次女も、
ひどいいじめに遭いながらも休まず学校へ行っていました。
あの頃は、
「学校へ行くこと」が正しいと疑いませんでした。
でも、明らかに違うことがあります。
それは、SNSの存在です。
ここ数年で、時代は大きく変わりました。
昔のいじめは、学校の中で起きていました。
でも今は違います。
いじめは一瞬で広がり、
画面の向こうで拡散し、
消したくても消えない形で残ることがあります。
それは、これからの人生を汚してしまうかもしれないという恐怖。
その恐怖は、
私たち親世代が経験してきたものとは、
質が違うのではないでしょうか。
だからこそ、
「昔はみんな我慢した」
「忍耐力がない」
「甘やかしだ」
そんな言葉で、簡単に比べてはいけないと思うのです。
時代が変われば、守り方も変わる。
我慢が強さだった時代と、
守ることが強さになる時代は、
同じ物差しでは測れないのではないでしょうか。
「甘やかし」と言われてもいい。
私は、我が子の尊厳を守る選択をしたい。
「社会性が育たない」と心配する声
不登校になると、必ずと言っていいほど言われる言葉があります。
「社会性が育たないのではないか」
学校は社会の縮図だと言われます。
確かに、集団生活の中で学ぶこともあるでしょう。
けれど、私は、問い直したくなるのです。
いじめられている環境で、
どんな社会性が育つのでしょうか。
本当の自分を押し殺し、
空気を読み、
傷つかないように振る舞う力。
それは”生き延びる力”かもしれません。
でも、それを本当の社会性と呼んでいいのでしょうか。
社会性とは、
誰かに合わせる力ではなく、
自分を大切にしながら他者と関わる力。
安心できる場所でこそ、
人は初めて他者を信じ、
自分の言葉で話せるようになるのではないでしょうか。
今はネットを通して多様な人と出会える時代です。
学校だけが社会ではありません。
「行くこと」よりも
「壊れないこと」のほうが大切なときもある。
「甘やかし」といわれてもいい。
私は、我が子の尊厳を守る選択をしたい。
「友達がいないと寂しい」と決めつけていないか
次男が不登校になってから、
私はたくさんの心配の声を聞いてきました。
「このままで大丈夫?」
「友達がいなくて寂しくない?」
「社会から外れてしまうのでは?」
その多くは、悪意ではありません。
”社会の当たり前”から外れているように見えることへの不安です。
でも、本来はどんな子どもでも、
社会が受け止め、守らなければならない存在のはずです。
それなのに、
不登校というだけで、
どこかから弾かれてしまう空気がある。
私は、ふと自分のことを振り返りました。
これまでの私は、
誰とでも友達になりたい大人でした。
けれど、子育てという話題になると意見が対立し、
いつの間にか、対立する人とは距離を置くようになりました。
気づけば、本当に心を許せる友達は3人ほど。
それでも私は、
今、寂しいでしょうか。
むしろ、
誰にも気を遣わなくていい時間のほうが、
ずっと穏やかです。
ネットの中の仲間と、
言葉を交わさなくても心でつながる感覚。
それで十分だと、
やっと思えるようになりました。
息子は、人との関わりに疲れて不登校になりました。
もしかしたら今、
誰にも気を遣わなくていい一人の時間を、
味わっているのかもしれません。
「友達がいないと寂しい」と、
大人の物差しで決めつけていなかっただろうか。
無理をして広げる関係より、安心できる小さなつながりのほうが、
人を強くすることもある。
やっと私は、
しんどい無理を手放す覚悟ができました。
次男も同じなのかもしれません。
それでも、子どもの尊厳を守りたい
苦しみの先に光があったことを、私は長女から教えてもらいました。
不登校の子どもを育てるということは、
子どもと向き合うだけではありません。
社会の「当たり前」とも向き合うことです。
「教育を受けさせる義務に反する」
「昔はみんな我慢した」
「社会性が育たない」
「友達がいないと寂しい」
その一つ一つの言葉が、
親の心を揺らします。
正しいのはどちらなのか。
甘やかしているのではないか。
この子の将来を狭めてしまうのではないか。
何度も、何度も、自分に問い続けます。
それでもーー
子どもの表情が少しやわらいだ日。
安心して眠っている姿。
自分の好きなことを話してくれる瞬間。
その小さな変化が、
私に教えてくれます。
この子は、壊れていない。
ただ、守られる時間が必要なだけなのだと。
社会に合わせる前に、
自分を守れる子であってほしい。
誰かに評価される前に、
自分を大切にできる子であってほしい。
その土台があってこそ、
本当の意味で社会とつながれるのではないでしょうか。
「甘やかし」といわれてもいい。
私は、わが子の尊厳を守る選択をしたい。
優しさは、弱さではない。
揺れながらも守り続けること。
それこそが、親の強さなのだと、
今は思っています。


